芸人のキングコング西野亮廣さんの凄腕マネージャーとして知られている田村有樹子さん。
キンコンの西野さんといえば、絵本作家として「えんとつ町のプペル」の大ヒット、映画化として成功しているだけでなく、リベンジ成人式の大成功でも話題になりました。
芸人の枠を飛び出して様々な場面で成功を収めていますが、裏には田村有樹子さんが関わっているのです。
今回は、都市伝説としても噂されてもおかしくないほどヒストリーのある田村有樹子さんの経歴について紹介していきたいと思います。
目次
【都市伝説】田村有樹子の経歴が波乱万丈!

- 名前:田村有樹子(たむら ゆきこ)
- 出身地:京都府京都市
- 生年月日:1980年7月24日
- 年齢:41歳(2021年1月時点)
- 最終学歴:同志社大学
- 職業:西野亮廣エンタメ研究所事務局、美術館クラファンプロデューサー
田村有樹子さんは、現在芸人のキングコング西野亮廣さんのマネージャーとして活躍されている方です。
田村有樹子さんはただのマネージャーではなく、「凄腕マネージャー」として有名で、2021年1月18日放送の「深イイ話」で密着取材を受けるほどの有名な方なのです。
西野亮廣さんもご自身のブログで田村有紀子さんのについて以下のように絶賛しています。
- 根性の人
- 僕のペースに合わせられた人なんて一人もいなかったが唯一食らいついてくれる人
- スピード感もある
田村有樹子さんについて詳しく経歴をさかのぼってどんな人物なのか調査してみました。
【都市伝説】田村有樹子の経歴が波乱万丈!凄腕マネージャー転身までの人生とは?
幼少期
1980年に京都で2人姉弟の長女として生まれた田村有樹子さん。

幼少期の写真からも分かるように少し肉付きがよく丸くてかわいらしいです。
両親からは厳しく育てられたようで、
という家族ルールがあったとのこと。
強烈なイジメを受けた小学生時代
元々明るい性格だった田村有樹子さんは、クラスの人気者でした。

しかし、5年生の頃、クラスのリーダ格の女子より上位の成績をとってしまったことが原因でいじめを受けるようになります。
「クラスのみんなは、自分が標的になりたくないから誰も止めてくれなかったんです。『家を放火するぞ』って脅されてたから、親にも言えなくって」
引用:note
他にも学校で蹴られるなどいじめを受けていた田村有樹子さん。
- 食事がのどを通らなくなる
- チック症
などの症状が出てしまったそうです。
しかし、負けず嫌いな性格だった田村さんは家に引きこもるのではなく、自分の環境を変えるため、朝から塾へ通って徹底的に勉強します。
人間不信になった中学時代
猛勉強の末、奈良市内の私立中学へ入学を果たした田村有樹子さん。
中学時代はイジメはなかったようですが、小学生のイジメを受けた経験から、
- 嫌われないために誰に対しても八方美人
- 人間不信
- 自分を演じている
という性格になってしまったようで、全然楽しくなかったと語られています。
テニスに打ち込んだ高校時代
高校時代になると、勉強には全然やる気がなくて学年で下から3番目の落ちこぼれになってしまったという田村有樹子さん。
勉強ではなく、テニス部に所属し没頭する学生時代を過ごします。
そのときは『テニスがあれば良い』って心境でしたね。
引用:note
テニス未経験で部活の中で一番下手だった田村有樹子さん。
ここでも負けず嫌いの性格が功をなして、テニススクールに通ってメキメキ実力を伸ばし、奈良県3位になるほどの結果を残します。
テニスで名を知られる存在になったこともあり、高校時代は今まで以上の友達に恵まれるほど人気者になった田村有樹子さん。
中学のときは八方美人で、自分から友だちに尻尾振って寄って行ってたのに、気づけば同じ学校の人だけじゃなくて他校の人からも声を掛けられるようになったようです。
この経験が今の馬力ある田村有樹子さんの原点になっているようです。
自分が頑張っていれば、そこに人は集まってくれるんだってことを体験できて、それがいまの私の原点になってますね」
引用:note
将来を悟った大学時代

田村有樹子さんはもともと高校卒業時には偏差値37だったのですが、
- 予備校に通うため祖父母宅に引っ越し
- 1日15時間以上勉強
の末、1浪を経て、同志社大学3学部に合格、同志社大学に進学しています。
同志社大学でもテニスにのめり込んでいました。
ここでもテニスに青春を捧げ、「寝てても単位が取れる授業しか選んでなくて、友だちに『代返』を頼みまくってました。卒論が要らないゼミを選んでたから、卒論も書いていないんです」と話す。
引用:note
そして卒業後の進路について考える過程で、
と悟った田村有樹子さん。
これには、小学生時代に「ブス」と言われ「自分って可愛くないんだ」と自分のビジュアルにトラウマになった経験もかかわっているようです。
当時まだ学生で20代前半という若さで仕事一本で生きていくことを決断されたようです。
とにかく仕事ができる人になろうと。結果さえ出せば人は寄ってきてくれるし、仕事は顔じゃないなと思ったんですよ。女としての幸せは、美人には負けるかもしれんけど、美人で仕事できんやつとブスで仕事できるやつ、どっちが仕事で需要あんねんって言ったら、ブスで仕事できるやつやなと思って。
引用:note
社会人としての経歴

田村有樹子さんの経歴としては、以下のような波乱の人生を送ります。
- テレビ局AD
↓ - 24歳で独立・プロデューサー
↓ - スナックのママ
↓ - リベンジ成人式の企画
↓ - 西野亮廣の専属スタッフ(マネージャー)になる
↓ - オンラインサロンを立ち上げ
1つずつ見ていきたいと思います。
①テレビ局AD

田村有樹子さんが選んだ就職先はテレビ業界で、「オフィス・トゥー・ワン」というテレビ制作やタレントのマネジメントを手掛ける会社を選んでいます。
「若いときは性格が負けず嫌い過ぎたので、他の人が営業で3本仕事を取ってきたら、私は身体を売ってでも5本取りたいと思うタイプだったから。まぁ売れるかどうか、実際に差し出すかどうかは別として。そのまま営業をやったら、結果を出すかもしれないけど排他的過ぎて寂しい人生になるんじゃないかなと思って、チームで出来る仕事として浮かんだのがテレビ業界だったんです」
引用:note
ということで、チームでできる仕事としてテレビ業界を選んだんですね。
そしてテレビ業界の中でも「AD」という過酷なイメージのあるポジションを選択されます。
田村有樹子さんは、
バリバリ仕事をする=仕事が出来る=価値のある女
という固定概念があったようで、
との理由からADを選んだようです。
美人ではない自分が生き残るためにはどうしたらいいかを考えたときに、仕事をしようと思ったようです。
田村有樹子さんは着々と実績を上げていったようで、テレビ東京系列で2004年4月からゴールデンタイムに放送されていた人気番組『所さん&おすぎの偉大なるトホホ人物伝』のADを担当されます。
相当やる気があり、週に150時間も働き、労働基準法の枠組みを軽く突破。
週に150時間というと、
という生活を送っていたようです。
それを「苦」として感じるのではなく、
と思った田村有樹子さん。
もっと働きたいのに労働基準法ってなんなん?そんなんでやる気潰されるんやったら辞めるわ
引用:note
オフィス・トゥー・ワンを1年4ヶ月で退職し、仲間と共に独立しました。
②24歳で独立・プロデューサーへ
自身で映像制作会社を立ち上げ、番組プロデューサーとしてテレビ制作に精進するようになります。
24歳のADが独立し、仲間と共に映像制作会社を立ち上げ、プロデューサーと名乗り出す。
引用:櫛野展正のnote
2014年から番組『ガリゲル』のプロデューサーを担当。
順調に経営者としてキャリアを積まれていたのですが‥
「仕事は順調だったんですけど、私は社員の給料や体調を気にしすぎる面があって、人のことばかり考えて生きていかなあかんのは嫌やと思って、30代前半で会社を辞めたくなったんです」
引用:櫛野展正のnote
30代前半で会社をやめたくなり、ストレスで円形脱毛症を発症してしまいます。
その結果35歳で会社を退職されることを決断しました。
今後の自分の人生を見つめなおした結果、驚きの全く違う異業種へ転職されるのでした。
③スナックのママ時代
会社をやめた田村有樹子さんが次に選んだ働き方はスナックのママです。
昔から芸人や経営者仲間から言われていた「田村さんはスナックのママに向いている」という言葉を思い出し、「人から何かに向いているって言われることなんて、いままで生きててなかったから」と、六本木のバーで雇われママとして働き始めた。
引用:櫛野展正のnote
この人生の選択で、
お金の正体
という、人生の糧になるものを得たといいます。
「お客さん同士を繋ぐ」⇒「お客さんの新たな仕事に繋がり仕事が増えて給料UP」⇒「お店に還元される」というように、
お金の裏には必ずその人の人選が隠されている
ことを学んだとのことです。
そんな田村有樹子ママ時代の衝撃的なエピソードがありました。

ある時、フェイスブックで自己破産を考えている女性の投稿を目にした。
「話だけで楽になれるんだったら、いつでも来て下さい」とメッセージを送ったところ、店に来た女性から、「自己破産する前にiPhoneの本体代7万円を支払わなければ、携帯を取り上げられてしまう」という話を打ち明けられた。
「1回しか会ったことない人だったけど、私が何かで7万円使うより、この女性にあげるほうが7万円の価値は高いだろうから」と惜しげもなくお金を渡したという。
こんな話きいたことありませんよねw
見返りを求めず、損得勘定など抜きにして自分が正しいと思ったことをやり抜くというのが田村有樹子さんの生き方だとうことを思い知らされます。
そんな田村有樹子さんはスナックのママを飛び出して様々な活動を行います。
④リベンジ成人式の企画

田村有樹子さんのエピソードとして有名なのが「リベンジ成人式」です。
2018年1月8日、全国ニュースにもなった「はれのひ事件」では、振り袖を着られない成人が続出しました。
同情する声が多く上がる中、実際には誰も行動しないことにムカついた田村有樹子さん。
西野亮廣さんと協力して「リベンジ成人式」を行います。

全国各地で成人式が行われた2018年1月8日に「はれのひ株式会社」が突然閉鎖して、成人式に振袖を着られない成人が続出することが分かると、西野亮廣さんに相談し、同年2月4日に新成人数百名を対象にヘアメイクや着付け、振袖を提供し、そのうえ船上ディナーまでプレゼントするという豪華な「リベンジ成人式」を企画開催した。
引用:note
この企画を実行するまでにかなりの努力がかかっていて、
という過酷な状態が1ヶ月続いた末での企画だったようです。
中にはいさぎいいエピソードもありました。

うちの田村Pに、横浜市さんから
「提供に『横浜市』の名前を入れてくだされば、会場費半額でいいです」
という連絡がありました。これに対して、田村Pは、「いや、もう知りません。」って、ガチャンと電話を切っちゃったんです(笑)
「別に満額払えます。もういいんで。」って。
キレてたな、確か(笑)「満額払います」って言っているけど、それを払うのは僕なんですよ(笑)。
でも、田村Pの独断と偏見で、「こっちが払いますから」って言ってしまって。
そんなことがありましたが、それは田村Pっぽくて、人間ぽくて、いいなと思います。引用:note
表向きは「西野が神対応」のようにメディアで取材されていましたが、裏には田村有樹子さんの企画発案や行動力が隠されていたようですね。
その後も豪雨災害の支援にも出向くなど、起業家のような活動を続けています。
⑤西野亮廣の専属スタッフ(マネージャー)になる
リベンジ成人式で2人がタッグをくんで大きな出来事を達成したことをきかっけに、西野亮廣さんは田村有樹子さんを更に気に入るようになります。

西野さんのいろんなイベント等を手伝うようになり、2019年秋には、
とヘッドハンティングされています。
この誘いは初めてではなく、「西野亮廣の仕事の邪魔になりたくなかったから」という理由で、1度目の誘いは泣いて断っている田村有樹子さん。
西野亮廣さんは、自分でも認めるほどワーカーホリック。

20歳の頃から、1日27時間でもいいのでは?と思うほどビジネスに没頭してしまう人で、自分についてこれる人はいなかったと語っています。
誰よりも努力家であるからこそ、一緒に仕事することに「邪魔になったらどうしよう」と恐怖の気持ちがあったようです。
しかし、西野亮廣さんから3回目のお誘いがきた2020年春、ついに専属スタッフになることを決意した田村有樹子さん。

その時の気持ちとして、
一度、ガッツリ、西野亮廣と向き合おうと。
その結果、ダメならダメで仕方ない。
西野さんが私のどこを評価してくれて、
引き抜いてくれたのかを聞いた事はないけれど、
”大好きが持つパワー”を信じてくれたんだと思う。
引用:note
と語られています。
⑥オンラインサロンを立ち上げ

田村有樹子さんは「田村Pのココだけの話」というオンラインサロンを主催します。

実は大人気のオンラインサロンで、「リベンジ成人式」などで田村有樹子さんを知る人たちが次第に集まってくる結果に。
芸能人ではないにもかかわらず、また月額1000円の有力会員であるのに登録者2000人以上達成しています。
たくさんの芸能人がオンラインサロンを開催されている中で、
- 1位 西野亮廣 56495人
- 2位 田村有樹子 2000人
- 3位 つんく 1187人
という堂々の2位という快挙を成し遂げているほどの人気ぶりです。
フォロワーの数ではなく、登録者数がその数を達成してるのはすごい数字なのです。
【都市伝説】田村有樹子の経歴が波乱万丈!凄腕マネージャー転身までの人生とは?まとめ
以上、田村有樹子さんの経歴についてまとめてみました。
これまで知る人ぞ知るという存在だった田村有樹子さん。
「深イイ話」で取り上げられたことで、かなり凄腕を持つ人物であることがこれまで以上に知れ渡ることとなりました。
田村有樹子さんのこれからの人生にかなり興味が出ますね。
ますます活躍されることを期待しています。